- 2001年9月19日
- vol.10「『原理主義』ということ」
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アメリカで、恐ろしい事件が起こりました。
戦争以外の死傷を伴う争乱としては「史上最悪」かもしれません。
犯人の追及、原因の究明はこれから厳しく進められて行くことと思いますが、
「テロ」という行為の凄じさにただ驚愕するばかりです。
しかし、私たちは、驚いてもばかりいられません。
我々もまた、被災された方々と同じ現代という時空を生きているのですから。まだ、犯行の主体は不明確ですが、マスコミ報道では
「イスラム原理主義者」の過激派グループによって引き起こされた事件であるという見方が
固まってきたようです。
東洋に海を隔てて位置する日本人には「中東諸国の問題」は、遠い存在であり、
また、彼らの宗教についてもほとんど馴染みがありません。
歴史上において「エルサレム」の聖地争奪がどれほど深刻で壮絶なものであるかも
滅多に理解することがないでしょう。
関わりたくても、関わる宗教的土壌を持たないのですから、頭の中に入る余地がないのです。一般に「イスラム原理主義」という言葉で言われる「原理主義」とは果たして何なのか。
それさえ、日本人には耳なれない、縁のない事柄です。
ここで私が、比較宗教学の話を始めてしまうと、とてもこのコラムでは納まり切れませんので、
外皮を擦る程度にお話ししておきましょう。「原理主義」、すなわち「ファンダメンタリズム・fundamentalism」とは、
本来は「キリスト教」にのみ存在する一種の宗旨で、
「聖書」に書かれていることを一切の疑問を差し挟まずに信じることなのです。
したがって、ファンダメンタリストはダーヴィンの「進化論」さえも否定します。ですから、世界中のキリスト教徒が全員「ファンダメンタリスト」であるということはないのです。
ごく一部の「聖書絶対主義派」とでも言うような人々の考えていることなのです。
これを「原理主義」と言います。「聖書をそのまま信じることが全て」であるために、
科学的とか合理的とかいう事柄は埒外におかれますが、
それはただそう信じることだけであって、
義務や行動が始めから規定されているわけではありません。
あくまでも「聖書を全ての原理として考える」だけのことです。
これは、キリスト教だけの中にある考え方です。一方、イスラム教の教典は「コーラン」であり、
当然、全てのイスラム教徒は、これを生きる規範としていますし、
コーランによって全ての生活を行為として押し進めて行くわけですから、
「原理主義」などと規定する必要がありません。
生活そのものがコーランの原理そのものなのです。したがって、イスラム教には、本来、「原理主義」というものは存在しません。
もし、イスラム教徒を区分する必要があるとすれば、
それは「イスラム教徒穏健派」と「イスラム教徒過激派」だけでしょう。
コーランの教えを超過激に実行すれば、
現在の世界情勢では「テロリズム」になるということなのです。しかし、これは、中世から近代に至るまで、
キリスト教徒が武力を行使して植民地拡大と異教徒奴隷制度を行ってきたことと
深いところでは同じ土壌です。
中世の「十字軍」の攻防戦が現代でも世界規模で果敢に戦われていると理解した方が
解りやすいかもしれません。
「宗教」「主義」の違いはどうあれ「テロ行為」が許されてよいものではありません。私は、「ホロスコープ」、すなわち、「時を覗くメガネ」で、宇宙から地球を観る
「宇宙史観」という超客観的な考え方に立っています。
こうした凄まじい事件を見る度、人間がいつまでも
「主義」「宗教」「人種」「言語」「思想」などにとらわれ、
偏見を持ち、差別し、略奪し、殺戮することの愚かしさから、
一日も早く目覚めてもらいたいものだと思います。諸悪の根源は、常に「差別と偏見」です。
そして、それを生み出すのは、極端な「貧富の差」ではないでしょうか。
もちろん、差別と偏見、貧富の差というものは、遠い異国の話ではなく、
私たちの周辺でも常に生じている問題です。
ほんの僅かな差別意識が、積み重なると恐ろしいまでの排他意識や悪意、
憎しみに愚かしく姿を変えていくのです……。今回の事件で犠牲になられた多くの方々の御冥福と早期の回復を祈り、
人類が、お互いに手を携えて生きる宇宙の中の「地球人」になることを
心から切望してやみません。