- 2002年1月30日
- vol.13「刹那と永遠」
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「占い」という人間特有の社会習慣は、
人類文明のあけぼのと共に存在していた、もっとも古い「文化」です。
既に何回かお話ししましたけれど、
それは、人間が他の動物と違って「時間と空間」の中で生きていることを認識できるという、
特種な本能を持ち合わせてしまったからなのです。世の中には「占い」というと、頭から「迷信」「詐術」の類と思う人もいます。
それは、「占い」という人類固有の時空認識を
学術的に研究することに対する侮蔑が根源なのではなく、
「占い」という伝統的な「状況対処技法」を悪用して、
法外かつ不当な金品を詐取する人間が存在するからなのです。「占い」という学術そのものが悪なのではなく、
それを利用する人間の中に「悪人」がいるということです。このことは、皆さんにはっきりと認識していただきたいと思います。
前回、宗教のお話しの時に申しましたように、
人間の「信仰心」はそのものは「善」であるけれど、
それが現世利益追求に走り「宗教」という教義に姿を変えた時に
「悪」が始まる原理と似ています。
もちろん、世の中には占い師や宗教家ばかりでなく、
医師、弁護士、警官、官僚、政治家など一般の人たちが頼りにする職種の人の中にも、
占い師など及びもつかないような「巨悪」が存在していることは、
毎日のニュースでご承知の通りです。どんなに素晴らしい学問や制度であっても、
それに関わるに「人間」によって物事は「善」にも「悪」にもなるのです。
科学信奉者も多い時代ですが、科学も「便利と水爆」が常に隣り合わせの学問であることを
心のどこかにしまっておいてください。人間が生きている「現在」という時間と空間は一瞬の連続の上に成立しています。
すなわち、人間は「刹那」を生きているのです。
後悔しても懐かしんでも「過去」は還ってきませんし、
思い悩んでも不安にうち震えても「未来」のことは誰にも正確にはわかりません。
わかるのは今現在、「刹那」そのものなのです。ですから、「刹那」ほど実感できるものは他にありません。
刹那だけが、手の平の上に乗せてわかることなのです。人生というものは、このはかない「刹那」の中に漂っているのです。
誰しも、生まれてきた以上「永遠の幸福」を願わない人はいないでしょう。
しかし、「永遠の幸福」などというものは、現実にはあり得ないのです。現世の不幸を来世で幸福にと念じるところから、天国や極楽を頭の中で造り出し、
一刻の心の安らぎ、魂の平安を得ようとするのは、人間のやむを得ない宿命です。
宗教が生まれてくるのは、これが原点なのですから。ただ、来世というものは、開闢以来「行って帰った人のいない所」ですから、
そうしたものがあるのかないのか、これほど「不確実」なものはありません。
天国や地獄の信憑性は「占い」の比ではないくらい曖昧と言っていいでしょう。ですから、私は、本当の幸福というのは
「刹那の中にふと永遠を見たような気がした」ことなのではないかと思うのです。例えば、寒風の中にふと梅の香を感じ取った、その瞬間、「あっ、春が近いな」、と、直感した。
そんな刹那のできごとが人間にとって、大切な幸福の実感なのだと思わずにはいられません。「より良き刹那を生きること」。
それが、現実に幸せを感じることなのではないかと私は信じています。
こういう話をすると、中には
「占術家のくせに『刹那主義』ではないか」と思われる方もおいでかと思いますが、
私は、未来の時空を分析する仕事をしているからこそ、刹那の大切さを痛感するのです。
刹那を輝いて生きようと思わない人に開運はありません。しかし、私がここで言う、その刹那は、決して、
投げやりで場当たり的な無頼無法の生き方を言っているのではないことを
あなたは理解してくださっていると思います。より良き明日を生きるためには、今を懸命に輝いて生きようとすることが大切なのです。
運命学という学問は、未来を見通すことではなく、
むしろ「刹那」のあり方を研究する学問であると私は思っています。そして、私はますます「刹那」を楽しく生きようと心がけます。