- 2004年3月24日
- vol.22「幸運の方程式・幸福なんて簡単に手に入る」
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しばらく、ホームページの原稿を書きませんでしたね。
なにやかやと忙しかったのです。
ふと気がつくと、もう桜が咲いている。
こりゃいかんということで、久しぶりに「開運大学」更新です。少し前に「不運の方程式」という、不幸になる体質の話をしましたが、
今回は、幸福なんか、その気になれば、
誰でも簡単に手に入るという極めつけテクニックをお伝えします。
まあ、このHPにたどり着いたこと自体、あなたは幸福の門をくぐったも同然ですけどね。では、まず、「幸福」とは何か。これを考えてみましょう。
「あなたにとって幸福とはなんですか」
こう聞いて回ると、人間はそれぞれ、いろいろなことを言いますよ。「幸福とは3億円の宝クジが当たることである」
と言う人がいるかと思えば、
「幸福とは不倫がばれずにこのままふたりでつきあっていけること」
なんて危なっかしいのもあります。十人寄れば気は十色と申しますからね。
それぞれに自分の「幸福」があっていいわけです。しかし、宝クジを買ってもいつ当たるかわからない。
……と言うことは、3億円当たるまでは幸せになれないわけです。そういう個々別の条件の厳しい幸福を追求していて、
はたして人間は、真の幸福に到達できるでしょうか。
私は、難しいと思いますね。世の中には「億万長者になれる本」みたいな題名の書籍が山ほど出ていますが、
まず、あの手の本を買って「億万長者」になれる人は少ないですよ。
なぜって、本に書いてあることを本当に実行できる人はマックス5%以下だからです。
本を買って読んだ人のほとんどは、その時は幸せな気分になりますね。
なんか明日にでも億万長者になれるような気持ちにはなりますが、残念ながら、そこまでです。
お金持ちになったような気分になるのと、実際にお金持ちになるのは言葉の上では大差ないけど、
実際は月とスッポン。多くの人はスッポンで終わるのです。さて、では「幸運の方程式」についてお話ししましょう。
これはとっても簡単なんです。それは「我を忘れることのできる時間が持てること」これに尽きます。
もっと簡単に言えば、「熱中し、没頭していられる時間を持つこと」です。精神世界や宗教界でいうところの「忘我の境地」に達しているわけです。
「悟り」に近いところにいると思っていいですね。
我を忘れてはまり込んでいけるものを持っていれば、少なくともそれに関わっているときは幸せです。逆に、そういう熱中できるものがなくて、「我」ばかりに気持ちが傾いている時は不安です。
なにしろ「我」なんてものは、完全無欠ではありません。生きているということ自体、真剣に考え出せば、誰だって不安の塊ですよ。
自分のもろさは自分が一番よく知っていますからね。私なんかメチャもろい。
でも、そういう、もろい自分が好きですよ。
だから、自分のもろさが解っていない人とはおつき合いしたくありませんね。
もろさ、はかなさが解らない人はデリカシーが欠如していることが多いからです。余談ですが、最近はデリカシーのない人が多くなりましたね。
他人のデリカシーの無さには腹を立てるけど、
自分のデリカシーの欠如にはトンとお気づきにならない。
独善的無誤謬主義の弊害です。閑話休題。
人間、「我」に思いが突き当たると「我を思う、ゆえに我あり」、なんて哲学はできるのですが、
「幸せ」とは距離があきます。とりあえず、「幸せ」になりたいと思ったら、我を忘れて関わっていられる楽しいことを始めましょう。
仕事だっていいんですよ。
仕事に熱中して我を忘れていたなんていうのは幸せじゃありませんか。
イヤイヤ仕事をするのは不幸ですね。我を忘れられませんからね。
自分と言うものが心理の表層にのぼってきて、
「ああイヤだ。帰りたい」と退社の時間ばっかり気になります。
これほど悲しい人生はありません。時間の浪費です。我を忘れていた時間があって、あとで、それを思い出して
「あの時は、もう夢中でした」なんて話ができるのが幸せなのではないでしょうか。本当の幸せは、その瞬間が幸せかどうかも本人には解らないのではないかと思います。
幸せかどうか考える暇も無く、はまり込んでいられるとき。
私はそれが一番身近にあって、誰にでも手に入れることができる「幸運の方程式」だと思います。縁起の良い春にするために、気張って何かにはまってください。
幸せは、いつもあなたの近くにあるのです。